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今年もまたこの季節がやってきた。
3/8、Jリーグ開幕戦。FC東京 VS ヴィッセル神戸。
久々の味スタはやっぱり堂々としていて誇らしく、
ピッチの青い芝生を見て何だか顔がニヤけてしまう。

開幕ゲストに山本高広(織田裕二のものまねでアレな人)を
招くという微妙すぎて絶妙なブッキングが東京らしい。
試合開始前の奇妙な静けさも、練習前の塩田コールも、
“You'll never walk alone”も、何も変わらない。
それがたまらない。それが最高。

監督も選手も何もかもが昨年とは全く異なり、
一からのスタートとなった今年のFC東京。
戦術も連携もこれから磨くべきもの。
それでも長友、羽生、エメルソンといった新戦力に希望を抱き、
カボレのスピード、キープに驚嘆し、
随所で垣間見えた意識の差に新しい東京を見る。

試合そのものはチグハグな動きになった後半に追いつかれ、
悔いの残る1-1のドロー。
ホームでの開幕戦としては決して褒められた結果じゃないかもしれない。
でも俺は(というかきっと多くのサポーターは)、
昨年の開幕戦のことを思い出す。
何の期待も抱けず、無惨に破れ、勝ち点を奪えなかったあの広島戦。

そして、あれからもう一年。
ドローで手に入れた勝ち点はたったの1だけど、
確かに感じた新しい東京の手応え。
その進歩に、その微かな胎動に、新しいシーズンへの期待が高まる。
大きなことは言わないし、望まない。
どうか東京が東京らしくありますように。

2008年3月8日。快晴。
1の進歩から東京は始まる。
さあ、散々待たされたカポレの獲得も決まり、
新シーズンの陣容も決定してあとは3/8の神戸戦を待つばかり。
プレシーズンマッチや練習試合の結果を見る限り、
まだまだ新戦力がフィットしているとは言い難いかもしれないけど、
大幅な入れ替わりで、ほとんど別のチームと化した今年の東京だけに、
じっくり一からチームを作ってもらいたいもの。

今年はカウンター志向でサイド攻撃重視の原スタイルから、
ポゼッション&中央突破の城福監督に変わり、
去年とはまったく違うサッカーを見せてくれるはず。

個人的には去年の東京は攻撃サッカーとは名ばかりで、

1、突破が少なく、突破できてもクロスの精度が悪いサイドアタック
2、指令塔はそもそもいないけど、いわゆるゲームメイクがまったくできず
3、守備はズルズル下がり対人にも弱く(DFの駒はあきらかに足りなかったが)
4、頼みの中盤のプレスもほぼ空回り
5、失点すると目を覆いたくなるような惨状を見せる精神力の弱さ

と、書いてて気分が滅入るようなサッカーだったけど、
そんな中でも特に後半戦ではいくらか選手の気持ちが見えたし、光明も見えた。
梶山は安定感が増して、今ちゃんとのダブルボランチという核が見えたし、
新加入の羽生、エメルソンあたりは練習を見る限りかなり期待が持てそう。
プレイを一切見たことがないカポレがもしフィットすれば、
もしかしたらもしかするんじゃないの?東京。

アホみたいに発売日が早いレッズのアウェイチケットもゲットしたし、
年チケも買ったし、今年の準備は万全。(新ユニが全然発売されないが)
調子に乗って、東京らしくいっちゃいますか!!
さあ、散々待たされたカポレの獲得も決まり、
新シーズンの陣容も決定してあとは3/8の神戸戦を待つばかり。
プレシーズンマッチや練習試合の結果を見る限り、
まだまだ新戦力がフィットしているとは言い難いかもしれないけど、
大幅な入れ替わりで、ほとんど別のチームと化した今年の東京だけに、
じっくり一からチームを作ってもらいたいもの。

今年はカウンター志向でサイド攻撃重視の原スタイルから、
ポゼッション&中央突破の城福監督に変わり、
去年とはまったく違うサッカーを見せてくれるはず。

個人的には去年の東京は攻撃サッカーとは名ばかりで、

1、突破が少なく、突破できてもクロスの精度が悪いサイドアタック
2、指令塔はそもそもいないけど、いわゆるゲームメイクがまったくできず
3、守備はズルズル下がり対人にも弱く(DFの駒はあきらかに足りなかったが)
4、頼みの中盤のプレスもほぼ空回り
5、失点すると目を覆いたくなるような惨状を見せる精神力の弱さ

と、書いてて気分が滅入るようなサッカーだったけど、
そんな中でも特に後半戦ではいくらか選手の気持ちが見えたし、光明も見えた。
梶山は安定感が増して、今ちゃんとのダブルボランチという核が見えたし、
新加入の羽生、エメルソンあたりは練習を見る限りかなり期待が持てそう。
プレイを一切見たことがないカポレがもしフィットすれば、
もしかしたらもしかするんじゃないの?東京。

アホみたいに発売日が早いレッズのアウェイチケットもゲットしたし、
年チケも買ったし、今年の準備は万全。(新ユニが全然発売されないが)
調子に乗って、東京らしくいっちゃいますか!!

いよいよ08シーズン開幕まで1ヶ月ということで、
いてもたってもいられなくなり小平に行ってきた。

ちなみに小平に練習を見に行くのは初めて。
住んでいる吉祥寺からはチャリで30分というところ。

最近よくネットのニュースで城福監督の練習法を見るのだが、
実際見に行ってみると確かにオシムばりの多ビブスでパス回し中。
様々なルールがあるようで、見ているこっちは訳わからん。
細かいパスまわしの技術、周囲との連動、判断力の速さ、
昨季の東京に足りなかったものだけに凄く期待が持てる。

試合形式の練習でもビブスによって役割を変えているようで
守備と攻撃、そしてフリーマンで5種類のビブスを使い分けていた。
見る限り声も出ているし、新加入のエメルソン(実際見るとかなり小さい)や、
昨日から練習に参加している代表組の今野、羽生も元気そう。
特に今ちゃんは練習でも鬼気迫る表情をしており、
残留してくれて本当に良かったと改めて思う。

粉雪が舞う寒さの中、およそ2時間で練習は終了。
居残りシュート練習をしていた平山とナオも見る限り調子が良さそうだ。
それにしてもこの寒さの中、見学しに来ている100人程のサポには頭が下がる。
練習後、ファンサ中の塩田の笑顔が何だか嬉しかった。
今日の寒さはさすがに応えたけど、今後は暇を見つけて小平に足を運ぼう。

それにしても昨日祭りになったネドベド獲得オファーは本当なのか……。
いや、来たら来たで嬉しいけど、5億程度で今後5年くらい期待できる
掘り出し物の外人を探した方が今後の為な気が……。
すぐ結果を求めたがるのが東京の悪い癖。

ブログを放りっぱなしにしてしまっていた……。
というより存在そのものを忘れていたわけだけど。

で、チャンピオンズリーグですよ。
今年も本命と対抗、大穴が入り交じりつつ、
最終的には来るべきところが来たな、という印象。
インテルやリヨンは好チームかもしれないけど、
欧州戦線での結果に乏しく、
こういった大舞台ではやはり経験がものをいうのだろう。
個人的にはバレンシアが好きなのだけど、
選手層も経験もこのクラスまでくると、いささか心もとない。
敗退は順調な結果といえるだろう。

そういった意味ではセミファイナルまで残った4チームはバランスが
取れているともいえるのかもしれない。
近年、急激に勢いを増してきた新興チェルシー。
古豪であり、常時トップクラスであり、一昨年のチャンピオン、リヴァプール。
かつて頂点をつかんだベテランに、勢いがある若手を融合したマンU。
そしてチャンピオンズリーグの常連、老練なミラン。

そして、セミファイナルの結果もまた妥当なものか。
戦前、戦力からしてやはり、チェルシー、マンUの有利が囁かれていたけど、
結果はリヴァプールとミランの勝利。
あくまで結果論に過ぎないが、欧州戦線で結果を残してきた、
「歴史」を持つチームが勝ち上がってきた。
最終的な実力が問われるリーグ戦よりもやはり、
経験や(勝者の)歴史がキーとなるトーナメント戦。
ここまで来ると、もはや選手の能力やモチベ−ションを超えた
「何か」が勝利への鍵となってくるのかもしれない。

それにしても今のカカはキレキレだ。
確かにクリスティアーノ・ロナウドの縦の突破は脅威だろうが、
トータル・フットボーラーとしての格がまったく違う。
乗りに乗っているカカは、ロナウジーニョを超えて、
今現在、世界最高の選手だろう(使い勝手も含め)。

と色々書いておきながら、正直リヴァプールとミランが
ここまで上がってくるとは思ってなかったなあ。
自国リーグを見る限り、この結果は意外といえば意外。
尻上がりに調子をあげてきたミランはある意味妥当か。
カカが引っぱり、セードルフがピリリと効いて、ガットゥーゾが噛み付く、みたいな。

さあ、今年のチャンピオンズリーグも大詰め。
最後に栄光をつかむのは誰だろう。



僕らは常に多くの「音」のある世界に生きている。
以前にも書いたことだが、ジョン・ケージの例を出さずとも、
生命活動を行い、聴覚を持つ人間にとって、
「音のない世界」というのものは原理的にはありえない。
僕らの肉体は常に音を発しているし、
空気の振動は我々の可聴域の内外を問わず、
常に起こっている。

しかし、僕らの耳は多くの場合、その音を聞いていない。
いや正確に言うなら「聴いていない」。
僕らの意識とは関係なく音は鳴っているし、
その振動は我々の鼓膜を揺らしているにも関わらず、だ。
ここで「聞こえているのに聴いていない」という現象が起きる。

ならば「聞く」とは何か?
そして「聴く」とは何か?

例えば90年代の半ばから「音響派」という言葉が生まれてきた。
この言葉はジャンルというよりは、むしろ姿勢のようなものを
指し示す言葉であっただけに、余計曖昧なイメージ(と付随する誤解)を
生んだのだけど、音響派の定義は大雑把に言うならこういうことだろう。
「ストラクチャー」と同様に「テクスチャー」を重視する音楽。
つまり曲の構造(メロディーやコード進行)に加え、
音そのものの感触、質感に意識的な音楽。
音楽を構成する音そのものに意識を置くこの姿勢は、
いわばミクロな視点をもって音楽に向き合おうということであった、はずだ。
(しかし、日本では何故か途中からポストロックやエレクトロニカと混同されて、
ミニマルでテクニカルなインストものから、果てはメロディアスな電子音楽まで、
全部まとめて「音響派」と呼ばれていた気がする)

しかし、功罪はともかく「音響派」という括りをひとつのきっかけに、
「音そのものを聴く」という行為はわりに一般化していったように思う。
僕は正直、音響学のようなものにあまり興味はないし、
ここで音とは何かみたいな話をするつもりは全然ない。
(もちろん音楽を楽しむ姿勢の優劣を問いたいわけでもない)
しかし、「聞く」と「聴く」の間に横たわるあまりに大きな断裂に、
意識を向けることは決して不毛な行為ではないだろう。
そう、ここでキーワードになるのは「意識」だ。

最初の話に戻るが僕らは日常で数多くの音に触れている。
それは僕らの鼓膜を確かに振動させている。
しかし、僕らはそのうちどれほどを「意識」しているだろうか。
それは音楽を聴くときも同じことだ。
スピーカーから流れてくる音楽のうちどこまでを、
僕らは意識して聴取しているだろうか。
それぞれの楽器の音、あるいは生成された音、それに歌声。
それぞれの微細な音色、テクスチャーを。

もちろん、音楽は同時により精神的なものでもある。
ただの空気の振動である音楽が僕らの心を時に揺り動かし、
感情を様々に変化させるのもまた事実。
そうでなければ、そもそも音楽というものは成立し得ない。
しかし、このようなマクロな視点に対して、
同じだけの意識をミクロな視点にも注げば、
音楽はより輝きをもって響いてくるはずだ。
音のキャラクター。丸みや質感、倍音の響きetc...。
アーティストは一音一音に恐るべき意識を傾けている。
そこにもやはり豊かな楽しみ方が存在している。

そう、それはだから「意識」の問題なのだ。
意識をどのレベルに設定するかで、
「聞く」は、「聴く」に変化する。
これは何も小難しい話では決してないし、
音楽がどのように成り立っているかを具に調べるような聴き方を
指し示しているわけでもない。
ストラクチャーとテクスチャーは等価なのだ。
だから何度も言うように、それはただの「意識」の問題なのだ。

グダグダ言わずに無心で楽しむのも音楽。
しかし、意識を高く持って「音を楽しみ尽くす」という接し方は、
より贅沢な音楽の聴き方だと思う。
何はともあれ、好きに楽しむのが一番。
けど、同時に出来得る限り最高に楽しみたい。
だから僕は音楽を「聞く」ではなく「聴く」ようありたいと思う。

※なお、この文章は佐々木敦さんの著書『(H)EAR—ポスト・サイレンスの諸相』にインスパイアされたものです。〈聴く〉とは何か?〈音楽〉とは何か?という設問に対する興味深い考察が盛りだくさんなので、ご興味がある方は是非。

【本日のBGM】
マニュエル・ゲッチング 『E2-E4』

マクロな視点で見るなら呪術的な反復のグルーヴ。
ミクロな視点で見るなら、恍惚的な一音一音の響き。
ワントラック一時間近い長尺ゆえに
「聴く」という行為そのものに没頭する一枚。

# by en-large | 2006-08-16 01:13 | 徒然


「神は存在するのか?」

こんな設問は神なきこの国において、いささか間抜けなものかもしれない。
生活レベルに宗教がないから、我々は日常で
「神」について考えることはまずない。
偶然ぼくは、かつて宗教がある生活にあった過去があって、
自覚的に、あるいは無自覚的に「神(でも仏でもなんでもいい)」について、
半ば無視しながら、同時に全く無関係ではない距離を保ってきた。
とはいえ基本的に純粋な個人主義者で、神も全体も関係ない自分が
急にこんなことを言い出したのは、この歳になって、
サリンジャーの『フラニーとゾーイー』を読んだからだ。

この小説は実際は「フラニー」と「ゾーイー」の2篇から成り立っている。
大雑把に要約するとエゴとスノッブがはびこる大学町に耐えきれなくなり、
『イエスの祈り』を唱えながら、一人ベッドに塞ぎ込む妹フラニーを、
兄であるゾーイーが回復させようとする物語。
小説な最後にこんな下りがある。ちょっと長くなるが引用したい。

「ぼくはね、俳優がどこで芝居しようと、かまわんのだ。夏の巡回劇団でもいいし、ラジオでもいいし、テレビでもいいし、栄養が満ち足りて、最高に陽に焼けて、流行の忰をこらした観客ぞろいのブロードウェイの劇場でもいいよ。しかし、きみにすごい秘密を一つあかしてやろう──きみ、ぼくの言うこと聴いてんのか?そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。その中にはタッパー教授も入るんだよ、きみ。(中略)この秘密がまだきみには分からんのか?それから──よく聴いてくれよ──この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分からんだろうか?……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ」(フラニーとゾーイー/新潮文庫より)

ゾーイーのこの言葉によってフラニーは救われ、回復するわけだけど、
ちょっとこの一文では何を言っているのか全然分からないかもしれない。
未読の方は、絶対に後悔する作品でないから是非文庫本を手にとってもらうとして、
僕がこの小説から受け取った感想はこういうこと。

基本的に僕は不可知論者だから、神は存在するかもしれないけど、
それを知ることも証明することもできない、と思っている。
だから、神は絶対的な超越者なのか、あるいはもっと象徴的で観念的なものなのか。
恐らく、その答えはどちらでもあり、どちらでもないはずで、
全ては心の中で起きつつ、同時に誰にとっても遍く存在するがゆえに、
ある意味では個人ではなく、やはり全体に帰結するものであって、
……と、そんなことを考えているうちに何だかよく分からなくなる。

けど、まあそんな話はどうでもいい。つまり「神」が存在するかどうかは
全然どうでもいいし、現時点の自分には全然関係ない。
って最初に「神は存在するのか?」なんて大見出しを打っときながらなんだけど。

つまり、神は存在するかもしれない。しないかも知れない。
存在することも、しないことも証明する手立てはない。
けど、神の存在を意識するかどうかで変わることはある。
何もこれはカルトの話では全然ない。
例えば、ゾーイーがフラニーに言った台詞はこうだ。

「きみとして今できるたった一つのこと、たった一つの宗教的なこと、それは芝居をやることさ。神のために芝居をやれよ、やりたいなら──神の女優になれよ」(フラニーとゾーイー/新潮文庫より)

自分だけの神なのか、世界の、宇宙の神なのか、
あるいはそういった名前で呼ばれる、何か形をもたないものなのか、
それはどうでもいい。
それは考え方の問題なのだ。対象は何だっていいのだ。
好きな娘の為にやるのも、家族の為にやるのも、自分の為にやるのも、
そして神の為にやるのも、すべては等価で、同じことなのだ。
捧げるような気持ちでやることが大事なのだ。
捧げるような気持ちでやるものこそが、本当にやるべきことなのだ。

こうして「神」を勝手に矮小化し曲解して、
真剣に神に祈る人たちには怒られそうだけど、
僕にとっての「神」の姿がぼんやりと形になる。
「意味」から遠く離れれば離れるほど、
人生や神や感情や何やかやは価値を無くしていく。
同時に意味も価値も無いこと、そのものに僕は意味を、価値をみる。
僕にとってだから神はカジュアルなもので、
しかし、例えばちょっとしたジンクスのように本人にとっては、
それなりに有用なものだ。

意味はない、意味はある。
価値はない、価値はある。
神はいない、神はいる。

その全てが同列で、ごく自然なものとして僕の中にすんなりと入ってくる。
これが今んとこの人生観。(無論、それは三日ごとにクルクル変わるものだ)。

正直『フラニーとゾーイー』の正統な解釈には全然なっていないだろうけど、
僕は勝手にこの小説から色んなものを学んだし、
なんつーか、ものの正統な解釈なんてそもそも糞くらえなわけで、
みんながみんな、勝手に理解し、勝手に自分のものにすればいいと思う。
だから、世の中誤解と相互理解の不全とが起こるわけだけど、
そんなのは当然のことだし、単なる前提なのだ、多分。
みんな好きにやればいい。そこにしか本当の理解はない。
というより「本当の理解」なんてものは最初からないのだ。
そんなもの、歴史上あった試しなんてないのだ、マジな話。

もう、締め所がない上に、何を言っているのか自分でも全然分からなくなってきて、
この文章は完全に、整理されてない自分の脳内をただ単にまき散らかして、
文字に乗せただけだなと思うわけだけど、
全ては相対的であり、「絶対」なんてものはないということだけを
「絶対」信じているから、僕は今こんなところにいる。
それは多分、自分が小さな人間で、僕の知ることのできる範囲が、
あまりに狭く、あまりに浅いからなんだろうけど、だから何だって話。
「神との付き合い方」なんてものは、猫との付き合い方と大して変わらない。
大仰なものではなく、各論としては重要だけど、総論としてはパッパラパーで、
こんなこと言っていること自体が馬鹿らしいけど、まあそんな感じ。

まあ読んでくれた人ごめんなさい(そんな人がいたらの話だけど)。
これは自分自身に宛てた文章です。
from俺 for俺。みたいな。ケケケ。

【本日のBGM】
rei harakami 『lust』

実はキリスト教の「原罪」を意味するこのタイトル。
日常と生活。意味から離れることと意味へと向かうことは、
違った出発点、同じ帰結点を持つということ。
言葉からの脱出(それは本当の荒技)を試みる、
実はすっげーラジカルで挑戦的な音楽。

# by en-large | 2006-04-29 16:47 | 徒然


の中心で愛を叫ぶのが2005年の流行だったみたいだけど、
もちろん俺は世界の中心で愛は叫ばないし、
「世界はそれを愛と呼ぶんだぜ」と歌うこともない。残念。

かつて「世界」と「自分」の関係について、
わりと真剣に考えていた時期があって、
それはそれは青臭く、同時にとても切実で真剣な季節だった。
散々考えた結果「そんなものには屁でもくれてやれ」という結論に達し、
かくしてこの世界は、安物シャンパンのコルク栓と同じくくらいの重さになった。
ポーーーンッ!!シュワー!!!

「人間の深淵」というテーマもあった。
とにかく絶望が格好良かった。
いつも人間の深淵について考えていた。
散々考えた結果「ケツにキスでもしやがれ」という結論に達し、
かくして軽薄な深淵は、夏の夕立後の水たまり程の深さになった。
ピチョーン。ビチョーン。

こういった若く形而上学的で無軌道な問題に対し、
かつてロックンロールはただ転がり続けることで答えを用意していた。
ケケケッと無責任に笑って、ギターをかき鳴らしていた。
その後、こういった高尚な問題に関し様々な回答が寄せられたが、
その多くはただの言葉遊びだった。
シニカルな態度にシニカルになり、そんな態度にシニカルになった。
延々と続くイタチごっこを経て、俺はひとつの結論に達した。
「アホくさ。女のケツでも追っかけてた方がマシだ」。
かくして俺は女の子を追っかけるようになった。アホめ。

しかし、そこに新たな問題が発生した。
それは、世界との距離より、人間の深淵よりも、ずっと複雑な問題だった。
ローンの返済よりも憂鬱で、水道代の支払いよりも億劫で、
オレンジレンジの人気振りよりも全く意味不明だった。
そう、「女・おんな・♀」。
このワケ分からん生き物によって、
俺の人生は完全なる暗礁に打ち上げられた。

エントロピーは増大するし、絶対零度は-273.15℃だし、小倉智昭はヅラだ。
この間違いない絶対的な真実に対し、
女という生き物はあまりに意味不明で、かっこよく言うとファジーである。
3秒ごとに気分が変わり、突然わがままを言い出し、
わがままを言わないと思ったら何故か不機嫌になっている。
しかも、かわいい。
もう、どうしようもない。手立てがない。対抗策がない。

かくして俺は四方八方を塞がれ、完全な暗闇に覆われる。
人間の意識に巣食う暗闇は大体気のせいだが、この暗闇は本物だ。
世界とも深淵とも絶望とも違う。
なにしろ触れるし、動くし、息までしている。しかも時々笑うのだ。
俺は人生におけるほとんどの問題を、ファック!シット!くたばれ!と叫んで、
ギッタギタにしてきたが、女の子にそんなことはできない。

そうして俺は気づく。
世界は女だし、深淵は女だし、絶望は女だ。
希望も女だし、幸福も女だし、天使も神も人生のすべても女なのだ。
OH! ノー!!。なんたること。なんたるアンサー。
俺がたった一人で生きることを望みながら、
決してそれをかなえることができないのは、ぜーんぶ女のせいだったのだ。
世界の中心で愛を叫んでしまうのも、それを世界が愛と呼ぶのも、
ぜーーーーんぶ、女のせいだったのだ。

石田純一。
彼だけが全てを知っていたのだ。
戦争や貧富の差や自然破壊も、タマネギが目にしみるのも、
体重計に乗るのが怖いのも、犬のおならが臭いのも、
クレジットの利率も、止まらない衝動買いも、
牛乳瓶の紙のフタに慎重にならねばならないことまで全部、
すべては女のせいであることを。

「マイライフ—The day in my life 」。
【著】石田純一/幻冬舎/¥1,260 (税込)
その深みは、いまだ全貌を見せない……。

後記:
ただの気分とテンションのせいです。
女性のみなさん、気分を害さないでください。
この文章のうち、三つ四つ以外は全部ウソです。
あるいは三つ四つ以外は全部本当です。
が、基本的には他意のない無邪気なフィクションです。
なお、本文と石田純一さんの著作には何の因果関係も存在しないことを予めお断りしておきます。


【本日のBGM】
くるり「男の子女の子」

日本語ロックが辿り着いた真実。
女の子の意味不明さについて岸田が鋭く言及するもノックダウン負け。
だが、男女関係の複雑さを見事に歌っている。

# by en-large | 2006-03-09 00:18 | 徒然

舞城王太郎が好きだ。
その速度とエネルギーが。

といっても舞城王太郎に出会ったのは昨年の年末で、
僕は彼の読者になってから、まだ一ヶ月しか経っていない。
でも、この一ヶ月で集中的に既刊の本を買い集めた。
彼はまだ若い作家だけど、もう10冊程の作品を発表している。

最初に読んだのは「阿修羅ガール」。
三島由紀夫賞の受賞作だ。
始めの数ページでちょっと引いた。
その文体は、ポップと言えば聞こえはいいかもしれないけど、
むしろまるで素人みたいな文章。
小説になっていないというか、個人のブログのようなノリ。
でも、読み進めていくうちに引き込まれる。
面白い。でも、それ以上じゃない。
ただ、収録されていた「川を泳いで渡る蛇」は好みだった。
不思議な余韻を残す作品だ。
それがファースト・コンタクト。

だから初めて読んで衝撃を受けたとか、そういうものでは全くなかった。
ただ、気になった。普段、読む機会のないタイプの小説だった。
本当に衝撃を受けたのは次に読んだ「土か煙か食い物」。
舞城王太郎のデビュー作だ。
当初の舞城王太郎はミステリ作家で(でも、やっぱりミステリではない)、
ここにはたくさんの謎解きがある。
でも、正直謎解きはどうでもいい部分だ。
文章の速度、圧力、意味不明のエネルギー。
すべてが圧巻だった。

小説というジャンルにとって、テンションの高さを表現するのはひどく難しいことで、
それに挑戦しても、大抵はただの乱雑な文章になってしまう。
いや、乱雑というなら舞城王太郎もそうだ。
ただ、それが読んでいて引っかからない。
乱雑ささえも巻き込んで、作品のテンションを高めて行く。

文章の速度、とさっき書いたけど、そういったことを感じさせる作家は少ない。
どんな作家にも文章のテンポというものはある。
それは作品のムードをある程度決定する要素だ。
けど舞城王太郎の文章にテンポという表現は似合わない。
むしろ、初期の作品は極端に改行が少なく、はっきり言って読みにくい。
句読点や改行は文章のテンポを左右する重要な要素で、
本来、小説の基本ともなる部分だ。
けど、そんなことは関係ない。
出来る限りのスペースを、大量の文字で埋め尽くす必要があったのだ。きっと。
だから、「土か煙か食い物」は尋常でないテンションを持った作品になった。
スピード!もっと速く!もっともっと速く!

その速度はどこから来るのか。
作品が持つエネルギーからだ。
ラスト、狂気の殺戮シーンの圧倒的描写は、
町田康の「告白」における河内十人斬りのシーンに酷似しているが、
「土か煙か食い物」は「告白」よりずっと前に出版されている。
暴力、憎悪、愛、その全てが恐ろしい濃度で、
誰かを何かをメチャクチャに引き裂かなければ、
決して収まらないようなエネルギーで描かれている。
速度とエネルギーが相互に影響し合い、
それがこの作品のテンションをどこまでも高めている。

そして同時に、舞城王太郎はとても俯瞰的な作家だとも思う。
狂気の描写の際、彼の精神は激しく高揚していただろうか?
本人に聞いたわけではないから分からないけど、
恐らくそんなことはなかっただろう。
とても静かに、しかし極度に集中して書いていたに違いない。
そうでなければ、ああいった表現はできないのはずだ。
小説を書く行為が、非日常的な行為であったとしても、
それは理性のものに行われているのだ、恐らく。

舞城王太郎の文章は粗い。
時にクエスチョンマークが付くくらいに。
文章そのものも、小説の構成も。
所々で明らかに集中力に欠ける部分が見える。
中だるみも起きる。
けど、ある一点における集中、エネルギーの濃度/密度において、
恐らく現存の作家で舞城王太郎以上の人間はいないだろう。
今のところ、彼の評価はその一点にかかっているはずだ。

初期の狂ったような速度と、圧倒的な筆圧は、
純文学に接近していった中期以降、その勢いを弱めているように思う。
ただ、彼は若い作家であり、そもそも、まだ初期とか中期とか言われるような
作家ではないのだ。ある意味では舞城王太郎はそのキャリアにおいて、
いまだ初期に位置しているはずなのだ。
はっきり言って最近の作品は、大して面白くない。
けど、その内容は明らかな過渡期にある。
「小説」自体が目的だった頃から、今、舞城王太郎は小説の「目的」へと
対象を移している気がする。
つまり文学というものが表現し得る、求め得る何かに接近している。
本来の文学が持つ(はずの)攻撃性、破壊性を持ちながら、
その深みへ、その可能性へと接近している。

だから、正確に言うなら、僕は「舞城王太郎が好きだ」と言い切るには、
まだ早いのかもしれない。
舞城王太郎という作家の世界は、恐らくこれから本当の姿を見せるはずだから。
ただ、はっきりと言えるのは、本当に注目すべき作家だということ。
ある程度まとまって、小ぎれいに見える最近の作家に比べて、
ずっとずっとスリリング。そして行く先が見えない。

作品が、ではなくて、作家自体に興味を持てることは本当に稀だ。
舞城王太郎はどこに行くのだろう。

【本日のBGM】
Miles Davis 『Bitches Brew』

ということで、スリリング繋がりで。
(といってもマイルスと現段階での舞城は比べようもないが)
電化マイルスの傑作。
イマジネーションとエレクトリック・サウンドが、
火花をまき散らしながら疾走する。

# by en-large | 2006-01-29 02:42 |


一昨日、渋谷のo-nestでクチロロのライブを見てきた。
クチロロはheadzのウェザーレーベルからリリースしている
二人組のユニット。
初めてのワンマンということで、ちょっと期待して行ったんだけど、
これが予想以上のライブだった。

まずフロアの凄い人だかりに驚く。
結構人気らしい。
んで一曲目は2ndアルバムから「Twilight Race」。
PVでもお馴染みのミラーボール魔神のような格好で登場。
なんつーか、全然うまくないけど好き。
トラックが本当にいい。気分にはまる。

んで、1stと2ndからバランスのよい選曲でライブは進む。
といっても1stは持ってないので凄く欲しくなる。
そして、ドラムでギターの大木さんが、もろアイドルの姿で歌う
「雨のちFall in Love」。
南波さんが傘を持って一緒に踊る。
振り付けもバッチリ。
もう、たまりません。
サックスからヴァイオリンまで勢揃い。
ここに全力を傾けるクチロロが好きです。

ライブを見て改めて思ったのは、
まず曲が本当にいい。堂々とポップだ。
それでいて、おもしろいことをやってる。
バランス命のバンド(ユニット?)だと思う。
なんつーか、歌ものの時はサニーデイやらキリンジ、
はっぴぃえんどまでを思わせるオーセンティックな歌ものポップ。
つまり本当の意味でJ-POP。
それでいて、明らかにトータスやらマイス・パレード以降の
ポスト・ロック直系な意匠がある。
こんなバンドは他にいない。

ラストは「朝の光」。
グッと盛り上げる。これはライブで聴くといい曲だ。
詞が具体性を持って響く。
“朝の光 特別な感じ クラクラするような それが何かは分からないけど”
そうそう、分かるよ、その感じ。
キラキラした曲だと思う。
もう、キラキラしたいんだ。

んでアンコール。
三浦さんがキーボードの弾き語りをして引っ込んで、
もう一回メンバーが登場して名前忘れたけど2ndの曲やって
「本当に終わりです」って言って引っ込む。
で、終わりかなと思ったけど客電がつかない。
あれ、と思いつつ手拍子してたら、
なんとメンバーが次々と上半身裸で現れた。
思わず「え~!?」 と声を上げる。
そういうバンドでしたっけ。
そして何とアイドル大木さんまでビキニの水着で現れた
キターーーーーーーーーーー!!!!!!!
もう興奮しまくり。
そして三浦さんが一言。
「もう知らないよ」

で、気合いの入ったインストがスタート!
おおっと。ポスト・ロックだけじゃねえじゃん。
大木さんのギターが格好良すぎる。
ソニック・ユースみたいだ。
上半身裸の野郎ども(と紅一点)が汗を飛ばしながら
熱中のインスト二連発。
やられた。こいつらいいわ。

結論から言うとクチロロ絶対支持を決定。
元々曲は好きだったんだけど、ライブを見て惚れた。
演奏自体はまだまだだし、カチッとはまってない感じはしたんだけど、
是非たくさんライブをやって欲しい。そうすれば説得力も身に付くはず。

でも、音楽はもちろんそんなもんじゃない。
多分、同世代だと思うんだけど、本当に「分かるよ、その気持ち」って思う。
音楽遍歴もやってきたことも、今やろうとしてることも、
そのバランスも姿勢も何もかもが「分かるよ」って思う。
格好良いことやりたい。マニアックなだけじゃ駄目だ。
やっぱりロックが好きだ。いい曲書きたい。でも変なこともしたい。
異端の正道。信用できる。
だからクチロロの方法論を絶対支持。

なんか、ちょっと嬉しくなったのでした。

http://www.faderbyheadz.com/
http://kuchiroro.jp/

【本日のBGM】
テレヴィジョン 『アドヴェンチャー』

もうすぐ2005年も終わり。
来年は心機一転、冒険の年にしたいということでこれ。
それにしても今年は昔の音源をたくさん聴いた。

# by en-large | 2005-12-30 14:25 | 音楽