
「神は存在するのか?」
こんな設問は神なきこの国において、いささか間抜けなものかもしれない。
生活レベルに宗教がないから、我々は日常で
「神」について考えることはまずない。
偶然ぼくは、かつて宗教がある生活にあった過去があって、
自覚的に、あるいは無自覚的に「神(でも仏でもなんでもいい)」について、
半ば無視しながら、同時に全く無関係ではない距離を保ってきた。
とはいえ基本的に純粋な個人主義者で、神も全体も関係ない自分が
急にこんなことを言い出したのは、この歳になって、
サリンジャーの『フラニーとゾーイー』を読んだからだ。
この小説は実際は「フラニー」と「ゾーイー」の2篇から成り立っている。
大雑把に要約するとエゴとスノッブがはびこる大学町に耐えきれなくなり、
『イエスの祈り』を唱えながら、一人ベッドに塞ぎ込む妹フラニーを、
兄であるゾーイーが回復させようとする物語。
小説な最後にこんな下りがある。ちょっと長くなるが引用したい。
「ぼくはね、俳優がどこで芝居しようと、かまわんのだ。夏の巡回劇団でもいいし、ラジオでもいいし、テレビでもいいし、栄養が満ち足りて、最高に陽に焼けて、流行の忰をこらした観客ぞろいのブロードウェイの劇場でもいいよ。しかし、きみにすごい秘密を一つあかしてやろう──きみ、ぼくの言うこと聴いてんのか?そこにはね、シーモアの『太っちょのオバサマ』でない人間は一人もおらんのだ。その中にはタッパー教授も入るんだよ、きみ。(中略)この秘密がまだきみには分からんのか?それから──よく聴いてくれよ──この『太っちょのオバサマ』というのは本当は誰なのか、そいつがきみに分からんだろうか?……ああ、きみ、フラニーよ、それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ」(フラニーとゾーイー/新潮文庫より)
ゾーイーのこの言葉によってフラニーは救われ、回復するわけだけど、
ちょっとこの一文では何を言っているのか全然分からないかもしれない。
未読の方は、絶対に後悔する作品でないから是非文庫本を手にとってもらうとして、
僕がこの小説から受け取った感想はこういうこと。
基本的に僕は不可知論者だから、神は存在するかもしれないけど、
それを知ることも証明することもできない、と思っている。
だから、神は絶対的な超越者なのか、あるいはもっと象徴的で観念的なものなのか。
恐らく、その答えはどちらでもあり、どちらでもないはずで、
全ては心の中で起きつつ、同時に誰にとっても遍く存在するがゆえに、
ある意味では個人ではなく、やはり全体に帰結するものであって、
……と、そんなことを考えているうちに何だかよく分からなくなる。
けど、まあそんな話はどうでもいい。つまり「神」が存在するかどうかは
全然どうでもいいし、現時点の自分には全然関係ない。
って最初に「神は存在するのか?」なんて大見出しを打っときながらなんだけど。
つまり、神は存在するかもしれない。しないかも知れない。
存在することも、しないことも証明する手立てはない。
けど、神の存在を意識するかどうかで変わることはある。
何もこれはカルトの話では全然ない。
例えば、ゾーイーがフラニーに言った台詞はこうだ。
「きみとして今できるたった一つのこと、たった一つの宗教的なこと、それは芝居をやることさ。神のために芝居をやれよ、やりたいなら──神の女優になれよ」(フラニーとゾーイー/新潮文庫より)
自分だけの神なのか、世界の、宇宙の神なのか、
あるいはそういった名前で呼ばれる、何か形をもたないものなのか、
それはどうでもいい。
それは考え方の問題なのだ。対象は何だっていいのだ。
好きな娘の為にやるのも、家族の為にやるのも、自分の為にやるのも、
そして神の為にやるのも、すべては等価で、同じことなのだ。
捧げるような気持ちでやることが大事なのだ。
捧げるような気持ちでやるものこそが、本当にやるべきことなのだ。
こうして「神」を勝手に矮小化し曲解して、
真剣に神に祈る人たちには怒られそうだけど、
僕にとっての「神」の姿がぼんやりと形になる。
「意味」から遠く離れれば離れるほど、
人生や神や感情や何やかやは価値を無くしていく。
同時に意味も価値も無いこと、そのものに僕は意味を、価値をみる。
僕にとってだから神はカジュアルなもので、
しかし、例えばちょっとしたジンクスのように本人にとっては、
それなりに有用なものだ。
意味はない、意味はある。
価値はない、価値はある。
神はいない、神はいる。
その全てが同列で、ごく自然なものとして僕の中にすんなりと入ってくる。
これが今んとこの人生観。(無論、それは三日ごとにクルクル変わるものだ)。
正直『フラニーとゾーイー』の正統な解釈には全然なっていないだろうけど、
僕は勝手にこの小説から色んなものを学んだし、
なんつーか、ものの正統な解釈なんてそもそも糞くらえなわけで、
みんながみんな、勝手に理解し、勝手に自分のものにすればいいと思う。
だから、世の中誤解と相互理解の不全とが起こるわけだけど、
そんなのは当然のことだし、単なる前提なのだ、多分。
みんな好きにやればいい。そこにしか本当の理解はない。
というより「本当の理解」なんてものは最初からないのだ。
そんなもの、歴史上あった試しなんてないのだ、マジな話。
もう、締め所がない上に、何を言っているのか自分でも全然分からなくなってきて、
この文章は完全に、整理されてない自分の脳内をただ単にまき散らかして、
文字に乗せただけだなと思うわけだけど、
全ては相対的であり、「絶対」なんてものはないということだけを
「絶対」信じているから、僕は今こんなところにいる。
それは多分、自分が小さな人間で、僕の知ることのできる範囲が、
あまりに狭く、あまりに浅いからなんだろうけど、だから何だって話。
「神との付き合い方」なんてものは、猫との付き合い方と大して変わらない。
大仰なものではなく、各論としては重要だけど、総論としてはパッパラパーで、
こんなこと言っていること自体が馬鹿らしいけど、まあそんな感じ。
まあ読んでくれた人ごめんなさい(そんな人がいたらの話だけど)。
これは自分自身に宛てた文章です。
from俺 for俺。みたいな。ケケケ。
【本日のBGM】rei harakami 『lust』
実はキリスト教の「原罪」を意味するこのタイトル。
日常と生活。意味から離れることと意味へと向かうことは、
違った出発点、同じ帰結点を持つということ。
言葉からの脱出(それは本当の荒技)を試みる、
実はすっげーラジカルで挑戦的な音楽。